その4 人間とは?

前回は靴の歴史から足を考えてみました。

鍬や鎌といった手で使う道具のように、履き物もナニかをするための足の道具として存在していたのが、ここ数十年で装飾品のような扱いに変わってしまったということですね。

足のための道具ではなく、装飾品のために足が窮屈(窮靴)になっているように感じます。
まるでピアスやタトゥーのように装飾品のために身体を痛めつけているような・・・

このプロジェクトは『人間らしさを取り戻す』というのがテーマにあります。

人間らしさとは・・・人間とは・・・

先哲たちの定義を見てみると・・・

「人間は社会的動物である」アリストテレス
「象徴(言語・シンボル)を操る動物」カッシラー
「理性をもった動物」ソクラテス
「道具を使う動物」フランクリン
「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)ホイジンガ
「心をもった機械」デカルト

先哲たちの言葉をみても、考えるのが人間という色合いが多いですが、そこに別の角度から人間を定義した方がいます。

元京都大学名誉教授で、理学博士。50年にわたって足の人類学を研究された、故近藤四郎先生は、

『直立して二本足でうまく長く歩く動物』

と定義されました。

確かに現代人は脳が大きく、知的生産を行う動物ですが、太古の猿人の頃は脳が大きく頭がよかったとは考えられない。脳容量も今の1/3とチンパンジーに近い容量しかない。しかし、その頃も人間は二足歩行をしていました。

まず二足歩行が基盤にあって、そこから狩りをしたり、道具を作り、集団で生活をするようになって、文化が発達。それに伴い、脳も発達してきた。つまり足が先、知恵は後。

なるほどなぁ〜と思いました。

パスカルの「人間は考える葦である」は有名な言葉です。
ここでも考えるのが人間という定義ですが、おもしろい解説があったので引用掲載してみます。

『少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。』

『人間は、考える足である』ともいえるかもしれませんね。

ちなみに歩けない人をさして、人間ではないということがいいたいのではなく、ここでは他の動物・哺乳類との比較から、大きなくくりでの話で、どんな形や構造でも個人の持っているモノが『人間らしさ』であり、それを最大限に生かすのが、『人間らしさを取り戻す』ということなのかなと考えています。

つづく

  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/241981.html

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